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精神分析の祖、フロイト

 精神分析の理論は、かの有名なフロイトから始まりました。

 フロイトは最初、ヒステリー症状に関心を抱き、催眠による治療を勉強していたが、限界に気づきます。そして、無意識を意識化するやり方として、自由連想法に至りました。

 フロイトは「個人の心のモデルは社会状況と繋がりがある」と考え、自由連想することはそのクライアントの治療のみならず、社会を眺める上でのヒントにあるとも捉えていました。

 

 

自由連想法とは

 自由連想法では、クライアントにカウチに横たわってもらい、連想(頭に思い浮かんだもの)をすべて言語化してもらうというものです。治療者(カウンセラー)はクライアントの連想を邪魔しないように、クライアントから見えない場所(特に古典的な方法では、主にクライアントの頭の先/後方)にポジションをとります。

 フロイトがクライアントの見えない場所から治療を行った本当の理由として、フロイトの当時の性格は対人恐怖的な部分があり、単純にすぐ近くで面と向かいたくなかった説があったりします(これは結構いろんな教授たちからも聞くので、ただの作り話レベルでもなさげなのです…)

 

自由連想法の流れとしては、このようになります。

1.     クライアントは無意識に身をまかせる

2.     日常生活の中で向き合わないような感情や記憶と出会うことになる

3.     続けていくうちに、「これは思い出したくない」などといった、自分の想起や記憶に対して否定的な感情が出てくる

4.     ここを言語化し、治療者によって解釈されることにより、新しい葛藤に出会う

 

 この葛藤を意識化するのが目標!

 こうすることで、受動的になっていた自我が主体性を取り戻す。というのが説明ではあるが、自我が主体性を持ったところでどうなるのだろう…?

自我と心の病

 自我の強さを取り戻すのが目標であるならば、まだわかる。自我が弱すぎると自分の内側と外側の境界がほぼなくなり、統合失調(昔の呼ばれ名:精神病)のような状態に陥る(というのが説)から。いわゆる不安状態や抑うつ状態などを含む神経症と精神病の間に、境界性パーソナリティー(BPD)がある。

 この境界性パーソナリティーの「境界」という言葉は、何を隠そう「精神病と神経症の境界」というのが一つなのです。”古典的な精神分析視点によると”、ね!

 このへんで境界性パーソナリティーの方の中には「精神分析最低!」ってなる方もいらっしゃるかもですが、精神分析ワールドはそんな単純ではないのでまだまだメンヘラらしく一緒に心を考えていきませんか。

 精神分析って聞くと、まずフロイトがバーーーーン!てくると思いますし、それはそうなんですけど、フロイトはあくまで「精神分析で一番最初の人」くらいの認識が現代のニュアンスとしては合っていると思われます。

 

 こういうことを言うと、古典的なフロイト派(自我心理学)の人たちは反論すると思うんです。でも、”反論する人もいる” っていう程度なんですね。これで、現代での「ガチフロイト信者」どれくらいの割合か、想像がつきますよね…?

 カトリックな人にはたくさん出会っても、敬虔なカトリックすぎてセックスしないなんて女、なっかなか見なくないですか???的な…

 

【本稿は、2018年現在、英国にて精神分析を勉強されているケイト イチノセ様に執筆いただき、管理人が体裁を修正いたしました。ケイト イチノセ様、ありがとうございました。】

 

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